卑弥呼の墓

提供:システム論システム
移動: 案内, 検索

卑弥呼の墓として、現在もっとも有力視されているのは、奈良県桜井市にある箸墓古墳であるが、魏志倭人伝、すなわち『三国志』魏書東夷伝倭人条の記述との整合性からすれば、福岡県糸島市にある平原遺跡の方が、卑弥呼の墓である可能性が高い。

目次

1 要件

卑弥呼の墓がどこにあったかは、邪馬台国がどこにあったかを決める上で重要な問題であり、畿内説では、奈良県桜井市にある箸墓古墳が、九州説では、福岡県糸島市にある平原遺跡1号墓が有力候補である。

箸墓古墳は、『日本書紀』によると、第7代孝霊天皇の皇女で、呪術的な能力を持つ巫女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされている。但し、崇神天皇陵という説もある。箸墓古墳は、陵墓参考地に指定されているため、内部調査が禁止されており、被葬者が本当に女性であったと考古学的に実証されているわけではない。

これに対して、平原遺跡は、その内部が既に調査されている。1号墓からは、40面の鏡を含む大量の副葬品が発掘され、その豪華さから、被葬者は、国王クラスと推定される。また、副葬品に武器が少なく、棺内から出土した耳璫が女性用耳飾りであることなどから、被葬者が女性であることがわかる。周囲に立てられていた柱や鳥居の方向から、この墓の設計は太陽崇拝の思想に基づいていると考えられている。

卑弥呼に関する確かな情報は、魏志倭人伝にしかない。だから、卑弥呼の墓がどれかを決める上で、魏志倭人伝における記述と合致するかどうかが決定的に重要となる。まず、卑弥呼が死んだ時には、次のように書かれている。

卑弥呼以て死す。大いに塚を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人。

卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、狥葬者奴碑百餘人。[1]

また邪馬台国における墓の特徴として、次のような記述がある。

その死するや棺有れども槨無く、土を封じて塚を作る。

其死、有棺無槨、封土作冢。[2]

もしも、卑弥呼の墓に槨があったならば、特筆すべきこととして、書かれていたはずだ。実際、「大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者、奴婢百余人」は、普通の埋葬とは異なるから、わざわざ書いているのである。

魏志倭人伝から卑弥呼の墓であるための条件は、以下の通りである。

箸墓古墳と平原遺跡のどちらが、これらの条件に合致するのか、逐次検討しよう。

2 規模

魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の大きさに関する記述として「徑百餘歩」とある。「径」という字が使われているからといって、卑弥呼の墓が直径百余歩の円墳であったとはかぎらない。「径」という漢字は、差し渡し、すなわち端から端までの長さということであり、円形以外の物の長さを測るときにも使われる。

次に「歩」がどれほどの長さか考えよう。中国には、魏・西晋の時代に使われていたと考えられている1里約76メートルの短里と漢の時代に使われていたと考えられている1里約540メートルの長里という二種類の尺貫法があり、そのどちらを用いるかによって、歩の長さが異なってくる。

魏志倭人伝に出てくる対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国が、対馬島、壱岐島、東松浦半島(港のある唐津市あたり)、糸島市の旧怡土(いと)郡、福岡市の旧儺県(なのあがた)に相当することに関しては、異論がないし、距離の取り方に関しても、連続説であろうが、放射説であろうが、異論の余地がないので、これらの地点間の距離、魏志倭人伝に記載されている距離、短里で換算した距離、長里で換算した距離を照合することで、どちらが使われているかを検証しよう。

短里と長里で換算した距離と実際の距離の比較
地点 距離 魏志倭人伝 短里 長里
対海国~一大国
(対馬市-壱岐島)
60km 千余里 76km強 540km強
一大国~末廬国
(壱岐市-唐津市)
40km 千余里 76km強 540km強
末廬国~伊都国
(唐津市-糸島市)
30km 五百里 38km 270km
伊都国~奴国
(糸島市-福岡市)
15km 百里 8km 54km

長里だと実際の距離と比べて桁違いに大きくなるが、短里ならば、長里よりもずっと誤差は小さくなる。明らかに魏志倭人伝は、長里ではなくて、短里を採用している。実は、『三国志』は全体として、短里を用いており、倭人の記述に関してだけ断りもなく長里を使うということは、常識的に考えてありえないことである。

魏志倭人伝が1里約76メートルの短里を用いているとするならば、1里は300歩であるから、100歩は25.3メートル、「百余歩」は、30メートル程度ということになる。平原遺跡1号墓本体は、東西約14メートル、南北約10.5メートルの長方形の方形周溝墓で、径(対角線)は、17.5メートルにしかならない。しかし、1号墓の周囲には、4基以上の土壙墓、柱1本、鳥居2組などの付属施設が配置されており、これらを加えると、径は、30メートル程度となる。

これに対して、箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり、「百余歩」よりも桁違いに大きい。長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、墳長としては短い。だから、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。しかし、この説は、橋本輝彦などによって否定されている。

築造当初から後円部と同時に構築されている渡り堤や外堤の盛り土内部、あるいはこれに先立つ地山整形時の埋め土内部から出土した土器の何れも布留0式の土器群であり、周濠の埋没時期、前方部での調査成果(墳丘の構築工程や築造時期)などを考え合わせると、箸墓古墳が布留0式期に前方後円墳として築造を開始、完成している事は間違い無く、長らく唱えられてきた後円部先行説は否定される事となろう。[3]

だから、箸墓古墳は、長里を採用したとしても、魏志倭人伝の記述とは合わない。短里の場合は、論外である。

とはいえ、多くの人にとって、卑弥呼の墓が30メートル程度しかなかったということは信じがたいことだろう。その程度の墓に対して、「大いに塚を作る」という魏志倭人伝の表現が当てはまるのかと疑問を持つ人もいるだろう。実際、この記述にこだわって、卑弥呼の墓は、箸墓古墳のように巨大な墓であったと想像する人が多い。しかし、魏志倭人伝を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が区別されていたことに注意しよう。『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」[4]という諸葛亮伝の発言や、通常、大君公侯の墓が「墳」であったという記事[5]があり、高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「冢」というように区別していたことが窺える[6]

では、どの高さを超えたならば、墳になるのだろうか。『周礼』には「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下庶民に至るまで各々差あり」とあり、高さが四丈もあれば、墳として扱われていたことがわかる。一丈の長さは、時代によって2メートルから3メートルの間で変化するが、あまり大きな差ではない。12メートルを超えれば、間違いなく、墳である。箸墓古墳は、高さが30メートルもあるので、魏使が見たら、「大いに塚を作る」ではなくて、「大いに墳を作る」と書いたはずだ。

これに対して、平原遺跡1号墓の高さは、発見時にすでに盛り土が失われていたから、正確な数字は出せないが、東西約14メートル、南北約10.5メートルという規模の方形周溝墓であるから、12メートルは無理である。柳田は、2メートル程度の高さだったと推定している[7]。この程度なら、大きめの塚として認定される。魏志倭人伝に出てくる「大いに塚を作る」という表現は、「塚としては大きいが、墳と言うほど大きくはない」という意味なのである。そして、この記述に合致するのは、箸墓古墳ではなくて、平原1号墓である。

3 槨の有無

槨(椁)とは、棺(ひつぎ)をその中へと格納する外棺で、「うわひつぎ」とも呼ばれる。槨は、棺と密接していて、棺あるいは槨との間に空間がある墓室は、蔵と呼ばれ、棺や槨から区別される。平原遺跡1号墓では、割竹形木棺という、大木を半分に切って、竹のように中をくりぬいた木棺が、直接土の中に埋められており、「棺有れども槨無く、土を封じて塚を作る」の記述に合致する。箸墓古墳の内部は調査が禁止されているので、内部構造は不明であるが、墳丘の裾に玄武岩の板石があることから、棺と板石の間に角礫を詰め込んだ竪穴式石槨があると推測されている。

魏志倭人伝にある「棺有れども槨無く、土を封じて塚を作る」は、卑弥呼の墓ではなくて、一般の墓に関する記述なので、同時代の墓についても検討する必要がある。平原遺跡に限らず、九州の甕棺墓や箱式石棺などにも槨がない。これに対して、箸墓古墳より前に造られたホケノ山古墳には木槨があるし、箸墓古墳より後に造られた黒塚古墳には礫槨がある。箸墓古墳が造られた時代の畿内には、棺を槨で囲む習慣があったわけで、この点からも、卑弥呼の時代の邪馬台国が畿内にはなかったことが確認される。

4 殉葬の有無

魏志倭人伝には「徇葬する者、奴婢百余人」とある。卑弥呼の墓かどうかを判定するもう一つの条件は、殉死した奴婢百余人を埋葬した形跡があるかどうかである。箸墓古墳の場合、内部は調査が禁止されているので、これに関しても不明であるが、周辺にある同時代の、内部が調査された古墳からは、殉葬が行われた証拠が見つかっていない。したがって、箸墓古墳の内部に殉葬墓が設けられている可能性は低い。

これに対して、1965年より発掘調査を行った原田が早くから指摘しているように、平原遺跡1号墓の内部と周辺には、殉葬墓と思われる墓がいくつかある。特に平原遺跡2号墓は、その可能性が高い。

殉葬墓(殉死者の墓)と考えられる土壙が、墓域内および排水溝の内部に見受けられた。墓域内のは、主人公の方形土壙の南側に土城壁を切ってと、二の鳥居の南側で墳墓の前面のほぼ中央とにひとつづつあり、どちらも楕円形で内部に積石が認められた。排水溝内には殉葬墓と陪葬墓の両者が入り組んでいるらしいが、東部と南部では不整形の大土壙が掘られていて、一緒に数人を埋葬したもののようである。[8]

原田とともに発掘調査に従事した柳田も、「周溝底には四基以上の土壙墓があり、確実に同時埋葬と考えられる土壙墓があることから、殉葬墓の可能性が強い」[9]と言い、1998年に再調査を行った前原市教育委員会も「1号墓と2号墓は接するようにして造られており、さらに周溝の一部を共有していることから造られた年代が近いと考えられ、それぞれに 埋葬された人物は深い関係にあったと考えられます」[10]と言っている。

もちろん、本当に平原遺跡に奴婢を百余人も殉葬することができたのかどうかに関しては疑問の余地がある。複数の被葬者を同じ方形周溝墓に埋葬する例は、九州では数多く見られるものの、平原遺跡全体の広さから考えて、百余人も殉葬しようとすると、かなり窮屈になったことだろう。ともあれ、殉葬の痕跡があったということで、平原遺跡が卑弥呼の墓である蓋然性は、高くなった。

5 建造時期

魏志倭人伝の記述から判断するならば、卑弥呼が死んだのは、248年前後であり、したがって、卑弥呼の墓は、3世紀半ばに築造されたはずである。考古学的証拠から判断して、箸墓古墳を含む纒向古墳群は3世紀末から4世紀にかけて造られたのに対して、平原遺跡は3世紀に造られたと考えることができる。考古学者たちは、平原遺跡が2世紀に、箸墓古墳は3世紀に築造されたという見解を持っているが、彼らの編年は、1世紀ずれている。これに関しては、各リンク先で詳述しているので、それを参考にされたい。

6 結論

以上、箸墓古墳と平原遺跡のどちらが、魏志倭人伝に描かれている卑弥呼の墓の記述に合致するかを検討してきたが、墓の長さや高さという点で、平原遺跡の方が、合致度が高いと言うことができる。槨の有無、殉葬の有無、築造時期に関しても、不明な点がいくつか残るにしても、平原遺跡の方が、箸墓古墳よりも合致度が高い。

本稿では取り上げなかったが、卑弥呼の墓かどうかを判定する上で重要なのは、副葬品である鏡の種類である。魏の時代に中国の北方で流行した鏡は、方格規矩鏡、内行花文鏡、夔鳳鏡(きほうきょう)、獣首鏡、位至三公鏡などであり、これらは、九州から多数出土している。平原遺跡から出土した鏡も、方格規矩鏡や内行花文鏡といった魏様式の鏡である。これに対して、畿内の古墳から多数出土する画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は、呉様式の鏡である。ここからも、卑弥呼時代の邪馬台国が、畿内ではなくて九州にあったことがわかる。

邪馬台国九州説の人の中には、久留米市御井町にある祇園山墳丘墓(通称、祇園山古墳)が卑弥呼の墓だと言う人もいる。墳丘墓の対角線は約30-35メートル、高さは約5メートル、槨はなく、第一号甕棺の周辺には多数の殉葬用の小型墓があった。また、第一号甕棺からは成人女性の人骨が出土している。だから、卑弥呼の墓であるための基本的条件を満たしている。しかし、第一号甕棺内には、画文帯神獣鏡片があったことから、卑弥呼の墓ではないことがわかる。墳裾から土師器や須恵器が出土したことも併せ考えるならば、築造は、3世紀後半以降であろう。ゆえに、現時点で最も有力な卑弥呼の墓の候補は、平原遺跡1号墓であるということになる。

7 出典

  1. 三国志, 魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝, 陳 寿(編)
  2. 三国志, 魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝, 陳 寿(編)
  3. 桜井市立埋蔵文化財センター発掘調査報告書20集, 1999年, 橋本輝彦(著)
  4. 三国志, 蜀書五, 諸葛亮伝, 陳 寿(編)
  5. 三国志, 蜀書十四, 蒋琬費禕姜維伝, 陳 寿(編)
  6. 邪馬壹国と冢, 歴史と人物, 1976年9月号, 古田 武彦(著)
  7. 伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学, 柳田 康雄 (著), p.156
  8. 実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」, 原田 大六 (著), p.107
  9. 伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学, 柳田 康雄 (著), p.40
  10. 平原遺跡発掘調査中間報告,伊都国通信,Vol.3, 1998.10.21,前原市教育委員会(発行), accessed Fri Jul 09 2010 19:07:14 GMT+0900
個人用ツール
名前空間
変種
操作
Sponsored Links
Recommended Books
案内
ページ
情報
ウェブサイト
ツールボックス